エントリ未満のかんそー

 さて……。とにかく書いておこう。堀禎一魔法少女を忘れない』がすごかった……と思う。いや、まちがいなくすごくて、ブルブルと震えながら座席に身を沈めていたのだけど(大阪初日レイトショー天気は雨、客はまばらながらも老若男女以外にヴァラエティに富んでいた)、すごすぎてピンとこないというか、始終混乱していたというか、フィクション受容におけるリアリティ・レベルのチューニングをひっきりなしに行なっていたというか、でもまちがいなくいい話で、胸をつかまれて、情感がこみあげてきて、でもこれっていったい何よ、何だったのよ、というきわめて喜ばしく晴れやかなモヤモヤにいまだ包まれている。アイドル映画、ライトノベル原作という共通点と、観た時期が比較的近いことから山本寛私の優しくない先輩』の名前が否応なく召還されるわけで(ダンス、眼鏡っ娘、男女二対二のグループ、などいわばパターンの範疇での類似……いや、ダンスは原作にはないのかも知れないけど未読なんで不明)、あっちはあっちで「映像」にはなるべく背を向けるという安易ならざる道を選び、成功しているとは言いがたいもののそれなりの野心を感じるし、何といってもラストのミュージカルはすばらしいの一言に尽きるのだけど、それでもやっぱり映画としての体裁を整えすぎている、と感じてしまう。あとまあ、主役のアイドルを可愛く撮れていないという点では致命的であるとも言えるし。お仕着せであるとはいえ、声とかもうちょっと何とかならなかったのか、と。思えば『フラクタル』にせよ『かんなぎ』にせよ氏の監督作における声優起用や運用には何かと疑問が、それを言うならハルヒ一期の「ライブ ア ライブ」への不満を……いや、ヤマカン氏のことはいいとして。

 『魔法少女を忘れない』 元・魔法少女である義理の妹のことを「忘れない」ための物語。ここでは魔法少女とは何なのか、ということについてはいっさい問われない。「この子、元・魔法少女なの」ある日母親が少女を連れてきて、少年にこう告げる。「はじめまして」とおずおず挨拶する少年の姿に、とつぜん年の大きな妹ができてしまったことに対する戸惑い以外のものは見受けられない。そう言われたから、ただそのまま受け容れている。この世界では誰も彼もがそうやってあっさりと元・魔法少女を受け容れるのだけど、もちろん世界に魔法が存在する様子はないし、元・魔法少女がぞろぞろ登場するような展開もない。意味不明の過去を背負った少女が、やがて消えゆくという理不尽な宿命を抱えながら学生生活を謳歌する。ひたすら現在があり、その表象としての少年少女の身体があり、それを捕らえるカメラがある。武士口調の委員長(委員長経験なし)にせよ、ミュージシャン志望の友人にせよ、そのぎくしゃくとしながらも快活な在り方が生きる身体として画面に露出している。『中学生日記』という類比はもちろん的を外してはいないのだけど(自称・元魔法少女とか出てきそうだ。自分の書いている小説の中で怪盗になりきっている女の子とかいたし。もちろんこの映画において魔法少女は、そしてそれを忘れないということは、比喩でも何でもないわけだけど)、映画をちゃんと観てそれしか言うことがないのなら視力を疑うほかないだろう。アイドル映画だからロングは決して多用されず、バストアップ+切り返しなんかの構図が非常に多いわけだけど、いずれも驚くほどに観るに耐える……いわば画面が保つ。その最たるものが終盤の委員長による長広舌で、語られている内容と、これまでの物語的・人物的蓄積と、口調のリアリティとが相俟って、もう震えが止まらなかった。本当に、この映画では女の子二人が魅力的。物語最初、兄のベッドで眠りこけていた谷内里早が「〜なのです」と喋りはじめた瞬間は「えー……」と思ったものだし、それは森田涼花の「貴様、〜なのだぞ」という武士口調も同様なのだけど(ただ後者については口調そのものではなくその口調が平然と発せられ言葉の応酬が成り立っている世界そのものを受け止め損ねていた、ということなのだけど。教室のノリとかも白々しさ、寒さ一歩手前の妙な感触としか言いようがないし)、ともかくも受け容れるほかないくらいに彼女たちは、そして彼女たちのいる画面は清く、瑞々しく、美しい。(ついでに。ラスト・シークエンスでの谷内里早の髪型がまたすばらしい。作中のリアリティ・レベルをその髪型で一手に集約させてしまっているのだ)

 ほかにも、ほかにも、と挙げていったらきりがないのはどんな映画を観たときも同じなのだけど、何にもましてこの映画は「もう一度観ないとお話にならない」(いや、まあ主役としか思えないほど多用かつ印象的に捕らえられた自転車、とかさ。冒頭から大きな満月が出てくるのだけど、某異星人映画のごとく自転車やそのシルエットがその前をこれ見よがしに横切ったりしなくて心底よかったよ)。先述のごとくいまだ靄のなかを漂っているとも言えるわけで。まあ頑張ってスクリーンを再訪するか、あるいはソフトを買い求めるか、どうなるかはわからないけど。ともかく、ここに約束を残しておいて。

 余計なことを。ノベルゲーム、あるいはAVGについてより考えるために、今年は『魔法少女まどか☆マギカ』による総括、『猫撫ディストーション』による現状報告、そして『ゴダール・ソシアリスム』による可能性の呈示(とひとつの達成)を吟味すべし、などときわめて真剣にtwitterでも書いてはいたし、エロゲーにおけるロブ=グリエ『新しい小説のために』はいったい何か、なんてことを考えたりもしていたのだけど(とりあえずそれは元長柾木による『Sense Off』企画書、および論考『回想――祭りが始まり、時代が終わった』である、という暫定結論)、『魔法少女を忘れない』のような奇妙で馬鹿馬鹿しいけど感動的な世界を可能ならしめる……何というか、ナンセンスで、とてもじゃないけど与太としか思えない「ライトノベルの可能性」とやらを本気で信じてみるのもいいんじゃないかと思っているうちにもう信じはじめていたし少なくともこの映画の前では信じるほかなくどうあろうとも結果的に信じていることにさせられてしまうのだったやむなく無理なくしょうがなく。

 (……もちろん、エロゲーライトノベルの特権性や優越性などという話には一ミリも与し得ないのは変わらないのだけど)