『がっこうぐらし!』について、あるいはゆきが美人になるということ

がっこうぐらし!』第31話、荒廃したコンビニに寄ったくるみとゆき、ひとりで裏を見に行っているあいだにてきぱきと床の掃除をしているゆきの背中を見て、くるみは頭の片隅に置かれていた疑念をおずおずと唇に乗せようとする。「……なぁ」「おまえ」「最近ちょっと…」やや二人見つめ合って、「美人になった?」「とか?」とやんわり頬を染め後ろ頭をポリポリしながらふやけ顔で応じるゆき。もちろんここで「はぁ!?」と応じるのがくるみなわけで、案の定そこで話はうやむやになってしまう。なってしまったのか、なってしまうような方向へと差し向けたのか……外面的には判断できない。実際これまでも事態の進行に応じてゆきの"揺らぎ"の描写、あるいはそこから身を引き剥がすかのように自らを鼓舞する様子がところどころに挿入されてきたし、くるみやりーさんはその一部を目撃しまたそこに立ち会っているわけで、現在はりーさんの"揺らぎ"にフォーカスが移行している以上そのことに対する疑念を読者の代行として口にするのはくるみの役割となるだろう。


 ときにカメラはゆきの見ている主観風景をとらえるという形でゆきに寄り添ってきたが、ゆきの内面にまでは立ち入ることはなかった。アニメ版はそれを踏まえたうえで、一話のラストにガラスの割れた窓をわざわざ閉めるというゆきの(内と外を隔てるという機能を奪われたものを習慣行動をなぞる形で作動させることで日常性を回復させようとする)(穏やかならぬ状況にあってはともすれば異常とも見られかねない)行動のあと、そこから吹き込んだ風を受けて窓の外を眺めるという動作を呈示している。窓という人工物とそれを閉めるという人間の営為によって遮られるはずの、自然現象でありそれ自体は統御不能な、いわば人間の外からの力である風がゆきの顔に否応なく吹きつけ、その風による物理的接触が半ば反射として促した彼女の主観においては確かに機能しているはずの窓に視線を向けるという行為が同時にその外を、力の起源である世界をまなざす行為ともなる。窓は象徴的には世界=外から自らを隔絶するものであるが、機能的には世界=外へと接続する扉になっているのだった。


 ところでアニメ版では一話からみーくんと太郎丸が学園生活部の一員となっている。まあこれに関してはOPテーマ歌唱を担当するユニットが学園生活部という名前で劇中のその構成員四名の声優からなるためはじめから面子を揃えておいたほうが都合がいいという事情もある気がするし、一話で仕掛けられていた(しかし原作コミックがすでに五巻も刊行されていたため、ニトロプラスという名前が蓄積してきたイメージと相俟って視聴者とのいささかわざとらしい共犯関係めいたものを当てこむかのような)サプライズ=引きを活かすためにも有効ではあったのだろう。しかしそれによってみーくんとの邂逅を描くために途中で時系列を組み替える必要性が生じ、しかもそれはどうしたって数話にわたらざるをえないため関係性変化の機微やグラデーションはきわめて描きづらくなっている……というか、端からほぼ放棄されていると言っても差し支えないだろう。そこは絵や挿話によって丁寧かつよどみなく(あてがいぶちのものとして)見せる方針が一話や二話の構成からうかがえるし、キャラクターも割とさくっと記号化されている部分がある。その影響をもっとも蒙ったのがめぐねぇで、漫画版では早々に姿が描かれなくなるにもかかわらずアニメ版では存在感薄いネタを繰り返しながらまるで自覚のない死者であるかのようにゆきの視界に留まりつづけるし、茅野愛衣もまたそのような演出のもと芝居をしているように見える。そのような世界でゆきは果たして"美人"になれるのか……と、唐突に思うのは、31話でのくるみとゆきの応酬がじつは噛み合ってなくもないように見えるからだ。確かにゆきは"美人"(の表象をより多く有するよう)になっている。表情や行動がデフォルメ的に描かれ、またそれに相応しい身体のパーツを具えていたゆきの輪郭はシャープになり、顔に対して眸の占める割合が小さくなり、全体的に描線のタッチに湿度が増している、すなわち情報量が増えたということであり、それは明らかにゆきの"揺らぎ"と相即して進行している現象だろう。情報量が増えたからこそキャラクターの外面からその内面を推し量ることが困難になる。もちろん美人になるということは「大人っぽくなる」ということでもある。なるほど、だからこそアニメ版一話の放送時点でこの作品を「アンチ日常系」と定位する言説が一部で流布したりもしたわけで(「日常のベールを剥ぎ取られた荒廃した世界においてなお自らの死=成熟の可能性から目をそらすキャラクターが……」みたいなノリで。多分。読んでないけど)、千葉サドルの筆致によって漫画版では枠外に押しやられていた危うさをアニメ版はしっかりと保存してしまっているということなのかも知れない。