反復が運動であるということを忘れてはならないと思う。運動というのは動きの途中ということであり、その瞬間だけ切り出せば静的でもある任意の時空間参照系に存在する観測者によって現前していることどもがかつて現前していたことが眼差される。つまりさわちゃんは早朝ライヴをする放課後ティータイムにかつてのデスデビルの姿を重ね合わせるわけで、これ自体はたしかに追憶のようにも見えるのだけど、さわちゃんのかつての担任が登場することでさわちゃんもまた放課後ティータイムの存在によって「かつての担任」の反復的存在へとメタモルフォーズする(反復の運動のただなかに組み入れられる)ことになり、さらにかつての担任がデスデビルを追憶するさわちゃんをその外側からさらに追憶することでさわちゃんが「追憶する追憶されるひと」として時空間の中で宙吊りにされ、彼女の視線の向きが現在→過去という因果を辿るような線的なものではなく、現在→過去→現在という折り畳まれたものであるということが構図として示される……こととなる。この構図を円環という静的モデルに落とし込むのはかなり無理があるというか、そもそも根拠がないように思うのだけど。


(ところでけいおんシリーズの作中で具象イメージとしてもっとも強調される「回転」といえば再生されるカセットテープのそれということになるだろうが、『映画 けいおん!』冒頭でもカセットテープから流れるデスデビルの当て振りをする軽音部の面々を見ることができる。聴くのではなく、音に合わせて演奏するのでもなく、ただ弾く振りをするだけ(しかもその動作は音と合ってさえいない)で音は出さない。しかもそれはあずにゃんの前で上演される寸劇のための前振りにすぎないわけで、某ヘルシー宇野先生ふうにいえば「ごはん(音楽)はおかずどころか前菜で、しかもごはんを模したケーキだったよ!」みたいな、みたいなじゃぜんぜんないけど、これもまた反復に対するひとつの(放課後ティータイムなりの)見解ではあるだろう、と(音階に沿って残響に残響を重ねながら具体的に演奏することもまた反復なのではないか)。まあ、そういう)

 昨日間違ってブログを更新したらなぜか「けいおん」の記事が上がってしまっていたので、何となく。たぶんさして話題にはなっていないのだろうけど、こういうtogetterを読んだので。

http://togetter.com/li/245854

 円環というのはいかにもアニメ評論的な主題で(「なんでもビューティフル・ドリーマー病」って、あると思うの)、日常系などという(非日常と対置される)カテゴリを念頭に置いて、まあ作品をダシに三題噺的なものをやりたいなーって向きにはうってつけのタームであるわけだけど。そんな邪念にまみれているから『映画 けいおん!』にありもしないノスタルジーなどを見出すわけさ。そもそも円環から抜け出すって何のこと? と思うわけよね。だって高校生の三年間なんて端から期限付きなわけで、誰もそのことを疑ってなどいない。一年生、二年生、三年生という各学年は円環で閉じてなどいなくて、連続していて、でも断絶していて、繰り返しで、別物で。無理やりに円のイメージをとるなら螺旋になるのだろうけど、上昇と下降の運動に縛られる必要などないので、やはりそこには反復の運動を見出すべきなんだ。さわちゃんという観測者が教室ライヴで放課後ティータイムに見出したのはデスデビルの反復であるわけよ。さわちゃんは想い出の中のデスデビルに放課後ティータイムを重ねてノスタルジーに浸っていたのでは断じてない。OPでデスデビルの模倣をする放課後ティータイムが、何も知らずにさわちゃんのために思いついた教室ライヴがデスデビルに、いわば歴史に接続した。その観測者であるさわちゃんは反復を、その運動を、つまりは音楽を見たのであって。で、それが『けいおん!』なんだよね。そこを間違えたらもうぜんぶ台無しだ。『まなびストレート!』を観ろよ、と最低限の慎みをもって最高のサブテキスト(かつテキスト)の存在を教えてあげるしか手段はないわけだ。だって観てわからないんだからさあ。『輪るピングドラム』がなぜ過去回想を多用しながら現在を束ねていったのか考えてみろってんだ。二種類の運動(上下と水平)を現出せしめるためでしょうが。

『監督失格』

 他人ごとではない……というわけではないのだけど、かつて平野勝之の撮影したアダルティック・ヴィデオグラムを観ては一日中そのことばかりを考えていた時期もないではなく、気の迷いではじめたHPにハイパーリンクを駆使した循環的かつ系統樹的な(つもりではあったものの実際には手動でペタペタと張っていたため構想よりはるかにショボイ永遠のUNDER CONSTRUCTIONということでどうかこの場はお手討ちを的な)『由美香』および平野監督諸作に関する批評スペースめいたものを含めてしまったくらいなので、突如甦ってしまった平野勝之という亡霊が林由美香という(平野氏の中の)亡霊を引きつれて目の前に現れた、という心持ちではあり、そういう意味では平野監督のオブセッションや見てしまったものを見なかったことにはできないという90年代的(と自分には思える)作家の呪縛とはまた別なものとして身につまされるところがあったし、中盤の衝撃的映像の登場により作品-観客の位相が揺さぶられ、あわや反転しかけるところでふっと引き離されやはり観客席側に取り残されてしまうことで生じた恐怖や心寂しさに大いに動揺させられ、映画館からの帰りに無用に身体を発火させるべく「すた丼」を普段の自分の摂取量からすると若干無謀な量を注文し、ひいひいと机に這いつくばるようにすべて食らい上げ寝床で腹を抱えうんうんと唸りを上げたものだった。

 ひとつだけ。例の映像に映っていなかったのは「死」であり「死体」であるが、平野勝之がついに撮影できなかったのは「死」ではなく「死体」である。というのも映画は決して死を映すことはできないからだ。映すことができるのは死体だけ。それどころか死は記述できないし、観測できるのかさえもきわめて怪しい。われわれが死だと思っているものは知識や情報に基づいて生の状態から然るべく計測された非=生であり、観測されているのはただその偏差だけなのではないか。そのちぐはぐさに囚われ逡巡していた平野勝之はなるほど『監督失格』なのであろう。監督がそこで悩んでいてはクルーも俳優も何も動けはしないのだから。

前置きとthe interviews

ここにはいかなる蓄積もなく取り置きもなく滞留もなくただ書きかけで捨て置かれた断片とディスコミュニケーションの痕跡があるのみなので「あの、で俺さ、俺思うんだけどさ、俺は俺なりに俺と俺して俺俺さ……」と性急にはじめることができない。「わたし女学ニート生時代からOLニートになるのが夢なるニートリー・ミズ・アンフェアII世でー」などとPCも時代考証も無視してやおら語り出すこともできない。書くことがない、書くことがあってもきっかけがない、きっかけがあっても形式がない――そういうひとにうってつけのサービスとしてザ・インタビューズなるサービスがあるというわけでは必ずしもなく、というのもまず連想的によく引っ張り出される「○○バトン」や「100の質問」なるものと違って第三者から質問が来なければそもそも書き出すことさえできないのだから(とはいえサブアカウントを利用すればどうとでもできるがそれは単にシステム上可能であるという話でここでは関係ない)。そしてその質問はtwitterという積極性(followしてタイムラインを形成する)と消極性(そしてタイムラインは流れる)が各々のルールによって配分を変えつつ混在するサービスと半ば無理やり提携することによってより強い意味を持つ……というか、有名人ならいざ知らず、無名の一般ピーポーに誰が何を訊くのか、において、followとタイムラインの観察による固有アカウントの連続性とそれに対する読解が大きく寄与するし、それは曖昧にクラスタとも呼ばれる話題や趣味傾向によって分類・再分類される疑似コミュニティ的なレッテルを優に横断する。twitterはツリー状に話題が形成されにくいし、コメント欄もない。しかしfollow関係における信(持続性)の蓄積はある。twitterとインタビューズが結びつくことで、「信(持続性)の蓄積がある匿名子」という迂遠な立場からの質問が可能になるというわけだ。そうなるとインタビューはただの質問ではなく、被質問者というテクストに対するある読解の呈示となる。被質問者はそれを読むことで相手に自分は斯く斯くこのようなテクストとして読まれた、ということを理解する。そして読まれたところのテクストとしての自分をさらに読みなおし、インタビューに答える。第三者の視線と、読まれうるし、また読まれているというシステムや象徴体系への信が自らをテクストならしめる。そういうことをもっとも効率的に、効果的に行なう場として(twitterと連繋した)ザ・インタビューズというサービスを捉えることは可能だろう。一時の流行りものと見なされているようだし、実際ピークは過ぎたような観もあるが、別に盛り上がらなくてもいいので(できればあの気持ちの悪いトップページなどは廃棄してしまって!)、ひっそり、だらだらと、せめてtwitterご臨終の日くらいまでは衰えながら継続していってほしいものだ。


 それを踏まえて『メメント』と『Steins;Gate』について次は書きます。書けたらいいな。書いたつもり。

2000年代、とある私的空間における時評風の文章片より

 というわけで発掘してみた。しかし、いったい、これは……。

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 人々が日本的な責任のあり方を否定的媒介に、よりいっそう日本的ともいえる「責任のあり方」に逃げ込んでいる光景を見ていったい何を思えばいいのだろうか。その韜晦に満ちた文の連なりを、ブラックでもジョークでもないひたすらありふれた粗雑なだけのイデオロギー(ふうに組織された単語の群れ)をかりにひとつ無視したところで、もはや視界のほとんどは真っ白な暴力とでもいうべき諸々の言葉で溢れ返ってしまっている。活字離れだって?たしかにグーテンベルクに象徴される「活字文化」は衰退の一途をたどっているように見えなくもない。しかしいまほど言葉が、文字が氾濫している時代はかつてなかったのではないか。テレビ番組においても、webにおいて、ゲームにおいても、夥しい量の文字が現われては消え、消えては現われをひっきりなしに繰り返している(対応する事例を手短にあげれば、ヴァラエティ番組の字幕、日記サイトや巨大掲示板、ノヴェルタイプのアドヴェンチャー・ゲーム)。貨幣のごとく高騰しきった言語的状況ではもはや言葉は子供の集めるバッジやメンコと同程度のものでしかありえないだろう、おどろくほどすんなりと交換が行なわれ、互いの手の内に収められた色とりどりの持ち駒は、増えるか減るかというふた方向のベクトルしかもちえない。

 ところで奇妙なのは唐突に「偽善者ぶった輩」に対する違和が表明される点だ。いや、その違和自体はありふれているどころか、偽善を排し、ネガティヴな形で露悪主義を共有しつづけてきたきわめて「日本史」的な、日本国民的な態度をきれいになぞっているとも言える(「偽善者ぶる」という二重否定的な語法は、そのまま受け取るならたとえば夏目漱石の『三四郎』に見出されるような「偽善家」――みずからの外面を従来的な「偽善」のイメージになぞらえて流通させる人々――を指示しているように思われ、一考の価値はありそうだが、おそらくは直後の文から単純な誤謬と判断して差し支えないだろう)。むろん偽善を厭うこの国の風土そのものが奇妙だということもできる。偽善は関係への意志である。その意志を「実現不可能な夢想」だと揶揄し、斥ける否定的な態度によって緩やかに連帯しようとする露悪主義者が望んでいるのはあくまで現状維持であり、関係の放棄でしかない。その意味では「中途半端な平和音頭」(理念なき偽善者)と同様に思考停止の印象はぬぐいがたいものだが、しかしまだ「平和」という言葉を意識しているぶん後者の方に発展性が望めそうな気がしてしまうのだ。「吐き気」もまた身振りである。彼らが偽善者を疎んじるネガティヴな身振りによってあっさりと連帯していることにまずは注目せねばならないだろう。

 ブラック・ジョークと露悪趣味はたしかに似ている……むしろ出来の悪いブラック・ジョークは露悪趣味しか生み出さない、とでも言うべきだろうか。それはなぜか肯定的評価として用いられがちな「毒舌」という言葉とともにあくまで共同体の容認するイメージでしかありえない。自明性を前提とした場所での符牒的な差異の記号であるという意味で、なるほど、埒もない本音一元主義とそれを支える奇妙な潔癖さはweb上に乱立する疑似サロン(知性なきサロン)に掃いて捨てるほど転がっているといえるだろう。ブラック・ジョークは共同体の容認するイメージに回収された瞬間にジョークであることをやめ、差別へと変わる。たとえば筒井康隆の「無人警察」がなぜ作者の断筆(パフォーマンス)を促すような騒動を引き起こすに到ったのか。実情はともかくここで問題にしたいのは、脳波を測定することでてんかん質の人間が運転するのを取り締まるロボット巡査に慄きながら主人公が独白する《わたしはテンカンの素質はないはずだし、もちろん酒も飲んでいない。何も悪いことをしたおぼえはない》というくだりが「てんかん=悪いこと」という差別的な図式に直結しているということでは決してなく(表面的な文のレヴェルにおいてはちょっと無理のある読みだろう)、共同体の容認するイメージにあくまで従順に、しかも飲酒や悪事と並列させることでてんかんとその患者を外部に排除するかのような構造をとっていることなのだ。この小説で実際にてんかん患者が傷ついたかどうかはこの際問われなくてよい。筒井に差別の意識があったかどうかはさらにどうでもいいことだ。てんかん患者は存在する。差別は存在する。ここで忘れるべきでないのは流通するのはイメージだけだということだ、そして対象のイメージ化はほとんどのばあい言葉をとおして行なわれるのだ……。

 「北朝鮮問題」に関する一節は差別とは何のかかわりもないように見える。ここで蛇足的に注記しておくと、件の一節に対する「擁護」者のひとりが例にあげている某アニメ=『SOUTH PARK』において頻発する幼稚な暴力表現は、共同体の容認するイメージを極端にデフォルメ化する戯画化の技法として容易に了解可能なものだ(しばしば安易に流されることも事実だが)。いわば偽悪主義とでもいうべきもので、居直るだけの露悪主義とは一線を画すものであり、偽善と背中あわせの「意志」をうかがうことができる。作品としての評価は不問に付しておくが、少なくとも「書くこと」の責任と「読むこと」の責任を混同させて自己正当化に勤しむような態度とは縁遠いであろう。むろん「差別」表現が流布しているからといって差別が許されるという法はない。詳述はまたの機会にまわすが、「受け手の責任」という提起自体はそれなりに有効なものだし、社会的弱者をたてにした抑圧への違和も理解できぬではないが、それらがはじめから一元的な居直りと諦念に落とし込むためにしか機能しえないような限界設定のもとに示されているようにしか見えないのはいかにも西欧的な悪しき弁証法という感じで苦笑を禁じえない(が、それが密やかに噛み殺された視霊者の笑いでないと誰がいえようか?)。

 人の数だけ多種多様の意見がある……はずなのになぜかあらかじめ水面下で結託していたかのように彼らの多くが「責任」を過失に結びつけてのみ論じようとしている様もまた奇妙だ。責任をただ「起こってしまったこと」に対する身の処し方としてしか捉えられないならば、そこから導き出される責任の帰結は「償い」や「事態の収拾」といった仲間の顔色をうかがう村の儀式にしかなりえないだろう。しかし責任のレヴェルにおいては「過去」など基本的には存在しえないのだ。『ゾンビ』のように死者=過去は何度も土を掘り起こし甦ってくる、あくまで死者として。そして彼らは昼夜を問わず人々の生活空間を、巨大なショッピング・モールをたむろしつづけるだろう。このゾンビと向かい合うこと、銃を取るにせよ爆弾を投下するにせよ十字架を掲げるにせよ、そのつど死者との関係を洗いなおしていくことだけが生者としての「責任」にほかならない。むろん各自がわざわざ墓を暴きたてるような錯誤など無用、望もうと望まざろうとどこかのマッド・サイエンティスト=丘の上の狂人が必ず掘り起こしてくるだろうし、日々刻々と世界に沸いてくるあの新生児たちこそが流転する「死者」の芽吹きであるといってもかまわないだろう(ここでは生命論的、宗教論的枠組みは必要ない)。

 さて、それでも露悪主義者の諸君が安心して居直るためにはいったいどうすればよいのか。とりあえず事態に先んじてマッド・サイエンティストどもをひとり残らず葬っておく?あるいは強制的に「入院」させてしまってもいい、そうまでせずともみんなせーので無視してやれば済むんじゃないか、なにせあの連中は「こっちが心配するだけ無駄な、救いようのないキチガイ」なんだから……問題はいったいだれが群衆の中からマッド・サイエンティストを見分けるのか、ということなのだが。

 しかしながら「だれが見分けるのか」といった類のもっともらしい懐疑的なつぶやきで文章を締め括ることの「無理」はもう少し意識されてもよい……。

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 おわり。しかし本当にこれは、やはり個人的には時代を感じてしまう。果たしていつ書かれたものか正確には分からないのだけど……。掘り起こしてしまってもよかったのだろうか。