駆け足で書いてしまったので補足。映画のチラシでは前線に在ることに生き甲斐を見出し、命が助かっても再び戦場へと舞い戻っていく彼らのことを"戦争中毒"と形容しているのだけど、この映画では静止した彼らの肖像とともにキャプションで各々の選択が語られるだけで(それこそ『アメリカン・グラフィティ』のラストのように)、そこに価値判断は介在しないわけです。四人の兵士それぞれの視線にコミットしながら、最終的に彼らを不可解な存在として普遍性(青春)と特殊性(アフガニスタンへの徴兵)のはざまに押し留めているんですね。おそらくそれはこの映画の起源となるコンセプト・イメージが彼らデンマーク兵たちに対する不可解さの印象にあったからではないかと思います。デンマーク兵とタリバン兵両陣営のあいだで板挟みになり一方的に被害をこうむるアフガン住民たちのことがほとんど省みられていない、という批判は正当だと思いますが、その視点は意図的にばっさりと切り落としてしまっているのでしょう。森達也氏の話ではアメリカでは大仰なBGMやカット割り、アニメーションを堂々と用いる、偏向していることを隠そうともしないある意味で力強い映像演出のドキュメンタリーは珍しいものではないそうです。もっとも有名なのはマイケル・ムーア監督の諸作になるのでしょうか、『電波少年』などと揶揄されたりもして、まあこのひとはあらゆる手段を使ってあらかじめ設定された「敵」のイメージを徹底的に貶めにかかりますわね。自分としてはドキュメンタリーといえば、いや、もはや映画といえば、の域に達しているけど、やはりフレデリック・ワイズマンがその筆頭であるという認識なので、想田和弘氏も言及していたように『基礎訓練』(1971)や『ミサイル』(1987)のことが思い出されましたし、住民たちが基地まで陳情に来てデンマーク軍からその被害に見合った補償金を受け取る場面などは『肉』(1976)なんかが脳裏をよぎりました。方法論はまったく違いますので初めは戸惑いもありましたけど。

『アルマジロ』について

ヤヌス・メッツアルマジロ』(2010) について簡単に。まず開始早々メインとなる四人の兵士を紹介しながらハードロックがガンガンにかかるので「え、こんな映画なのか……」と唖然となるが、実際のところそんな映画である。通常この手の機動性というか何らかの組織や集団に潜入して内部者の視線に接続することで平行性を重視する作品の場合はドキュメンタリーのドキュメンタリーらしさを保持するためにカメラのフィックス撮影などと同様BGMによる感興演出は慎重に排されるものだとも思うが、この映画では導入から遠慮せずまるで兵士たちを映画俳優であるかのように切り取っていく(そういえば部隊長はブラッド・ピットに似てないか? メスも誰かに……マーク・ウォールバーグ?)。それでもドキュメンタリーとして圧倒的な"画"が撮れている、という自負の表れなのだろうか? たしかに圧倒的な"画"も"音"も撮れている。逆説的に劇映画としか思えないような臨場感と鮮明さをもって映し出される戦場の様子はほかの作品では決して味わうことのできない体験を観客にもたらすだろう。カメラの前で実際に銃弾が飛び交い、爆撃が行なわれ、兵士民間人敵味方関係なく負傷し、死ぬ。のみならず、キャンプにおける兵士たちの生活や作戦実行の様子がそれこそハードコア・ポルノ動画をアルコール片手にみんなで視ているワンシーンから無線の通信内容に到るまで赤裸々に捉えられている。


 ……赤裸々? しかし軍の許可を得て堂々と撮影し、またカットされることなくこうやって映画として公開されている以上、その赤裸々さはあくまで公にしていいと判断されたレヴェルの赤裸々さではないのか? 終盤、四人のタリバン兵を殺害した作戦実行の様子(負傷した兵を殺したことを自慢する内容)がその実行者の口から親への電話を経て軍の知るところとなり、憲兵から部隊長が事情聴取を受けるという事態が発生する。「帰国したら楽しい軍法会議が待ってるぞ」と部隊長は言い、部内の出来事を漏らさぬよう兵士たちに脅しをかけるのだが、当然その様子もカメラはばっちり捉えているのだ(ところで件のタリバン兵殺害が実行された作戦にはカメラも(おそらく兵士のヘルメットに埋め込まれる形で)ついて行っているのだが、銃撃がはじまり、手榴弾が投げ入れられたところまでは映していても実際に負傷兵が殺されたかどうかまでは映していない。駆けつけたときはすでに溝の中でぐちゃぐちゃになった四人の死体が積み上げられ、兵士たちはそこから武器や弾薬を掬い上げる作業をはじめていた。まるで彼らが基地内で暇つぶしに遊んでいたFPSを再現するかのように。ここでもカメラは肝心なものは見逃してしまうという特権を行使しながら、見てしまったものを並列化し倒錯さえ演じさせるのだ)。兵士のひとりは言う。「言いたい連中には言わせておけばいい。ここにいない者に何がわかる」


 当然ながらこの言葉は映画において発せられることによって観客に対しても向けられることとなるだろう。一方、カメラが三ヶ月間密着してきた中で兵士たちの心境や価値観がどのように変わっていったのかを観客はちゃんと観ているし、負傷兵の抹殺もまたその延長線上にある出来事ではないのかということを想像する余地も与えられている……そう映画によって演出されている。その場にいないと知り得ないことを知りながら、しかし決してその場にはいない、というドキュメンタリーの原則ともいうべき観客のアンビヴァレントな立ち位置がここで明示されているのだ。そしてラスト、生き残ったメイン四人が軍法会議でお咎めを受けることなく次々とアフガニスタンの最前線へ舞い戻っていったことがテロップのみで報告されることによって、この映画がかようにBGMをふんだんに用いてフィクショナルに演出されていたことの意図にぼんやりとではあるが思い至った。観客の視線を一度兵士四人の視点へと接続して戦場の臨場感をひとしきり体験させたあとに、タリバン兵士四人に関するあたかも『藪の中』めいた物議によって引き剥がし、それでもまた彼らは戦場に戻るのだ、という後日談によって生じるどこか釈然としない、ある種非合理な印象のただなかに押し留めるため、観客のよく知るハリウッド的な青春映画が準拠枠として用いられたのではないか。事実、基地の中で「仲間がほしかったんだ」と自らの志願動機を明らかにする兵士の言葉も捉えられている。この映画の宣伝でも、戦場シークエンスの臨場感を説明するためにわざわざ『プライベート・ライアン』や『ハート・ロッカー』というフィクション映画が引き合いに出されていたではないか。リアリティを参照する際にフィクションが経由される。


 というわけで、この『アルマジロ』から遡行することで、『スターシップ・トゥルーパーズ』(1997)→『ミッション・トゥ・マーズ』(2000)→『リダクテッド』(2007)という系譜をでっち上げてみたいのだが、いかがだろうか。エンドロールが流れる中、この映画がこの形で公開されることを許したデンマーク軍、および被写体の兵士たちのことを考えながら、『リダクテッド』ラストで涙にくれて戦場のことを語る帰還兵に浴びせられる拍手の薄気味悪さと、それに続く『戦争のはらわた』ばりの戦争写真コラージュのことが脳裏を去来したのはたしかなのだ。彼らもまたイメージの間で引き裂かれている。

「山田尚子監督には愛がない」とかいう寝言を見かけた気がするが

twitterで書こうと思っていたが面倒になった。もういいだろうという気持ちだ。ところで昨年おぼえてから馬鹿の一つおぼえのように「物事の裏には意図がある」と言っているのだが、とうぜん重要なのはその意図はどのようなものか、ということではなく、たしかに意図があるのだ、というテーゼを共有することにある。おそらく人は身に降ってわいた出来事や自然現象等々がどのような意図をもってもたらされたのかをわざわざ疑問に思ったりはしないが(思うのだとしたら統合失調症かあるいはそういう宗教か……)、言語で構成された人工物の、その諸表現の裏側にある意図の存在くらいは信じたっていいはずだし、そうすることで読者はテクストを真に受けるしかなくなる。物事の裏にあるのは真意ではなく、あくまでそこにあるのは意図であり、意図というのは何かをしようという目論見や企みであっていまだそこには何も露呈されていない、ただ痕跡があるだけで、物事(テキスト)の裏を経由して意図という"意図する者"の痕跡へと辿り着く、その営み全体をテクストというのだとはひとまず思っている。

で、ちょっと前に書いたことの繰り返し。『映画けいおん!』を観返そうとしたら5秒で胸一杯になってしまったから。まあ、確認のための無味乾燥なまとめ。冒頭であずにゃんのために組織されたあずにゃん除く現役バンドメンバーが、カセットテープで再生された先輩バンドによる演奏に合わせた、より正確を期するならテープに記録されているところの演奏された時間の持続と同期して持続しているだけにすぎない、音も出さなければその音の再現性を司るふりさえしない、いわばちっとも当て振らない当て振りあずにゃんの登場によってうやむやに中断される、この全体が後続するわざとらしい小芝居を導くために意図して演出されている。ここで明示されているのは、反復は繰り返しではない、ということ。デスデビルと放課後ティータイムは音楽性がまったく異なるし、かたや音楽、すなわちその時間の持続そのものが目的であるにもかかわらず、かたやその持続の出来損ないの反復はそれ自体が目的ではなく、あくまで目的への橋渡しを意図したパフォーマンスでしかない。いわば本題と枕。そして目的はあくまで外側=あずにゃんにあり、閉じた部室(しかし開かれることを期待されている)において演じられるずれた反復はあずにゃん自身の登場によって破られる。


優れた映画は冒頭部でその作品における映像/運動の規則を明瞭に提示するものであり、『映画けいおん!』もまたその例に漏れない。この作品の画面を彩る大小様々な回転は円環として繰り返すのではなく、反復としてずれつづけるのであり、またそれはその運動の起源をもってして開かれるのだ、と。ただ四人に一人加わっただけでは本当に開かれているとは言えない。あくまで予行、あくまで仕込みであって、それを受けての後半、さわちゃんのために企画された放課後ティータイムフルメンバーによる教室ライヴを見守るさわちゃんを見守る元担任、すなわち"反復する放課後ティータイムを見る、見られる反復される山中さわ子"という構図であり、そしてそのこととはまったく関係なく、別の場所で「わたしたち伝統受け継いでるじゃん」と自分たちで気づき、あずにゃん(たち)の方へ走り出すラストシーンへと繋がる。ところで。平沢唯が先頭を歩きながら進行方向に背中を向けているのはみんなと話しているからであり、みんなとはあずにゃんを除く同級生の三人であり、すなわちそれは学校を去りゆく面子である。そして横断歩道を渡りきったところで振り返って走り出しその先にあずにゃんがいる――この一連の所作に、未来は背中からやってくる、という日渡早紀『未来のうてな』で示された非常に印象的な時間観との相似を見出したりしていたのだった(そもそもの由来はギリシア哲学あたりだろうか? ゼノンあたりを要精査)。


でまあ、上記のような描写が継承でなくて何なのよ。たしかに唯の視線の先にいるのはあずにゃんだけである。唯のダッシュあずにゃんのもとに駆け寄るために、唯の両手はあずにゃんへと伸ばしその身を掻き抱くために存在しているかのようだ。しかし放課後ティータイムがデスデビルの(出来損ないの)反復であるのと同様に放課後ティータイムもまた誰かに反復される存在であり、たとえバトンを直接手渡されるのがあずさであったとしても、起源がつねに外側にあるように、あずさもまた誰かにバトンを渡すのだろう、という仄かな予感が萌されるというにすぎない。いずれ軽音部に入部してくる(かも知れない)憂や純や菫にもまた託されているのだということは火を見るより明らかではないのか。そんなことをひとまず。

かつて存在しその認識を共有される作品にも似た決して共有されぬ何か

たまこまーけっと』について、「"かわいい"以外の言葉は禁止」と言われました。「だってかわいくないから。ひとはかわいくなるためにかわいいものを観るんでしょう?」と言われ、さらに「映画けいおんもだからね!」と付け加えれらてしまったのでもはやぐうの音も出ずまたそれは至極もっともだと思えますので「もっともです」とこうべを垂れるほかありませんでした。一口で(アニメ版)「けいおん」と言っても『けいおん!』と『けいおん!!』と『映画けいおん』はまるきり別作品というわけではなくとも大きく雰囲気というか細部の組織の仕方が異なるわけで、昨年のことを忘れてその都度はじめて日付や行事や季節を生き直すかのような登場人物たちの言動であるとか、とつぜん所与として芽生えるムギちゃんの新設定であるとかに端的に表れているように作品は絶えずテクストとして読み直されつつフレキシブルにその様相を変えつづけてきたと言えるでしょう。たとえば『氷菓』は当初違和感ばかりが先に立ってあまり乗り切れず半ば消化する体で遠巻きに眺めているばかりだったのですが、『愚者のエンドロール』相当のエピソードでようやく楽しみ方がわかってきたというか「よく読んでるなー」と感心させられてしまい、とはいえそれは「原作を読み込みテクストの組成や著者の意図を深く斟酌している」という意味ではなく、テクストは読まれることで読まれたテクストとなり複数の読まれたテクストを擦り合わせることが読むことである、ということを主題に織り込む形でテクストからのフレキシビリティとして高らかに宣言している、といった程度の意味で、印象としてはむしろ頑なさを残すものである、ということはエピソード進行に伴う空間構成の変化がギッチギチに明密であるけいおん一期目や物語時間を先取り的に内包する確としたパースペクティヴが設計された二期目にも感じることだったりします。その上での『映画けいおん』であって、まるで(いつとも知れぬ地点で平沢唯が目覚める場面からはじまるからこそよりいっそう)作品の見る夢がごとく反復であり、予定調和であり、それがゆえに自由で、美しく、徴候に満ち、かわいいもので溢れ、ただただ醗酵した行間からたちまち滲み出す言語行為のメランコリーから距離を取ることだけにすべてが賭けられていた……と言っても差し支えないかも知れません。そして『たまこまーけっと』はその夢のつづきであり、だからこそOPでたまこがシルクハットを携えて空から降りてくるわけです。彼女は種も仕掛けもあるはずの手品を披露していかにもうさんくさい鳥をこの世界に現出させます。わたしたちはいかがわしいものをそのいかがわしさゆえに、にわかには信じがたいものを信じがたいがゆえに信じるのだ……とまで言ってしまっては先走りすぎ、仮託しすぎというものですが。何にせよ「けいおん」を期待して「たまこま」に失望する、というごく一部で語られるまことしやかな言説は『映画けいおん』をさくっと無視することでしか成立し得ないし、どうせ「京都アニメーションはオリジナルを作れないくせに与えられた原作には愛なき改変を加える」という物語を流布して溜飲を下げたいだけの連中でしょうよーとっとっといけないいけない、"かわいい"以外は駄目なんでした。これではまたぞろ大目玉を食らってしまうではないですか!


  というわけで今年こそはブログの書き方を思い出しつつ、かつて知っていたことがあるのかきわめて怪しいものの、ともかく誤魔化しでもでっち上げでもいいので連続的な更新を目指して。次は2012年のベストミュージックでも書き残しておくことにしましょう。せっかく意識的に新作を聴いてきた一年でもあったしね……。(今年はすでに60年代サイケレア盤の再発に興奮したりしていて早くも駄目な予感。D'Angeloの新作が完成間近とか見逃せない情報もあるけど。あとついにやってきました大声優時代!)

 何度も書きかけて書くのをやめたけど、とりあえずあらためて思ったのでここに記しておこう。ちょっと前にtwitterのほんの片隅で盛り上がっていた(「けいおん!」キャラに関する)「内面」についてのつまらないおしゃべり、原因となったテキストを擁護することはとても出来ないが、かといって批判者に与することも到底出来そうにない。とりわけタイムラインにリツイートされてきた数々の(論理的かつそれなりに綿密に証拠立てた)揚げ足取りは本当に目眩がするほどひどいものばかりだった。件のテキスト作成者の自爆ぶりにも「もーうーやーめーてー」と目を覆わんばかりだったが……ともあれ意見傾向の固定化ぶりにいろいろうんざりしてしまったのも事実。万が一にも蒸し返したくない話題なのでほとんど誰も見ていないここに何らかの考えをまとめられたら。せいぜい書き散らかすことしかできないだろうけど。