このnarrativeについてのけっこうとりとめのないまとめhttp://togetter.com/li/553526を読みながら思い出していたのが以下のくだり。これは声優について書こうと思って下書きのままはてなダイアリーに仕舞われていた文章の一部なんですが。だから"演技する描かれたもの"はアニメーションのキャラクターのこと。むかしツイートした「声優とはトランスヴァーサルかつトランセンデンタルな運動であり得る」という柄谷行人浅田彰の口まねのような与太が発端となっています。与太というか思いつきで、考えていること自体は大真面目ではあるのですが。まあ、いずれにせよこの地点からじゃないと何も始まりえないような基本的なことかと思います。ただの確認事項です。

 演技する描かれたもの。それは演技するものとして描かれたわけではない(それではただの設定だ)、描かれることが演技することである。一般的には演技するという行為は「自分とは別の何ものかになる」ことだと思われているし、演技をする、何ものかになるという行為そのものの主体性は疑うべくもないが、それは主体性という概念が疑うべくもなく存在しそれが個人の内面に萌し何らかの行為の端緒となりうると信じられているからに他ならず、ひとまずそれを信じるとして、では描かれたものの主体性はどこに萌すのかというと描かれたものが勝手に描かれるということはない以上それはひとまず描いたものの手に、とは言えるだろう。だが描いたものの手は描かれたものの外側にしか存在せず、描かれたものにとっては描かれたところのキャンバスが世界のすべてであり、そこから外に出ることはできないし、そもそも外などというものは存在しないのだから、主体にそのことが感知できるはずもなく、感知できるとするならそれは主体によって構成される想像力の範囲内でということで、それを縮めて「構想力」ということもできようが、それは認識可能な世界のすべてであり、認識可能であると認識される世界のすべてであり、以下略、と無限後退をつづけるほかない。そして主体性はその定義されざる"外"から与えられ、しかも行為(演技)の主体には萌さない、ということになる。つまり行為の主体と行為者を主体ならしめる主体性は分離可能である……というか、描かれたものの仕草や表情を演技ととらえることで主体と主体性が分離する。

宮崎駿『風立ちぬ』を観て思いだしたこと

いつ頃から流布しているのか知れない夏目漱石の「月が(星が)きれいですね」エピソードというものがあってオンライン・ライフハッカーズが嬉しげに拡散させている光景を定期的に見るのだけど、こういう本人が書いたわけでもないエピソードに出典を求めたところでしょうがないので(たとえば元生徒の回顧録のような形でどこかに綴られていることが判明したとしてもその出典に信憑性があるかどうかはまた別の話だし、それは紙の本だろうがWeb上の記述だろうが原則的に変わりはないはず)真に受けるのは構わないにしても、このフレーズからは原文の置かれた前後の文脈のみならず、翻訳される言語の背景となる文化や情趣、それがどのような風土のもとに生きているかということを考慮に入れることなく、ただ西洋の概念を逐語的に自国語に置き換えて事足れりとする、ともすれば西洋かぶれとも見なされかねないその愚直さを笑いながらも厳しくたしなめる英語教師の姿しか見えてこないし、生徒に発想の転換を促すためユーモア混じりに用いた"極端な例"以外の何ものでもないこの一文を馬鹿正直に反復する生徒がいればその教師も苦笑をもって遇さざるをえないではないか(がらんどうヘッズが「ねえねえ、ちょっと"I love you"を和訳してみて?」と得意満面で吹聴してまわる様子はちょっとだけ一昔前に安田成美が出演していた「薔薇って漢字で書ける?」とかなんとか無遠慮に語りかけてくるお醤油のCMを想起させたりして)。


 そもそも「月がきれいですね」という文が愛の言葉として成立するためにはまず「月がきれいですね」という文が愛の言葉として成立する関係性がなくてはならないが、しかし「月がきれいですね」という文が愛の言葉として成立する関係性の枠内で「月がきれいですね」と口にしたところでそれは愛の言葉ではなく愛を確認する言葉でしかない。そこにはいささかの事件性もないし、少なくとも"Love"という概念が日本語に持ち込まれるというのはそれなりの事件だったはずで、そうでなければ既存の日本語に置き換えれば済む話だし、わざわざ生徒の直訳を退けたあとに呈示する例として相応しくないだろう。この文が会話する二人にとっての事件であるためには両者間に安定的な関係性が成立していてはならない。関係性がなくてはならないが、関係性があってもならない。この矛盾した要件を同時に成立せしめるのが月の存在だろう。「月がきれいですね」という言葉からは片方が月を見上げ、もう片方にそれを見上げることを促すという一連の動きが見えてくるが、もちろん月は初めから空にぽっかりと浮かんでいるしそのことを両者とも見上げる前から認識しているのだから、あくまで彼らのムーヴの起因となったのは月である。月があるから彼らは空を見上げたのであり、それが二人の愛の証左となった。言い換えれば月は彼らが見上げる前から二人を見ていたが、二人は実際に見上げる前から月が二人を見ていることを知っていた。この"知っていた"と見上げるというムーヴを架橋するのが「月がきれいですね」という言葉であり、それゆえに二人で見上げるという些細な動作が事件たりうる。そしてその事件は月があらかじめ見ていたという強固な事実に起因するものだから、遡及的に関係性が生成されたということにもならない。


 ところで宮崎駿風立ちぬ』にあって堀越二郎にほとんど欠けているのは上昇と下降のムーヴだろう。堀越二郎は設計者であるため飛行機には乗らない。ただ夢、あるいは幻想の中でのみ飛行機に乗って上昇し、ときに墜落することで下降する。他方、現実ではただ地上から飛行機の上昇と下降(墜落)を見上げるのみである。ドイツのユンカース社を視察した際に試乗してはいるが、離着陸が描かれることはなく、また堀越自身の興味も飛行そのものではなく飛行する原理にしかないのでもっぱら飛行機の中を歩きまわるのみだった。記憶にある限り、二郎が具体的に下降したのは序盤で震災に見舞われるシークエンスだけだったと思う。菜穂子と出会い、女中を背負って駆け下りたあの斜面。そのあと二郎が自身のシャツに染みこませた水を与えるくだりも含め、このシークエンスは中盤で二場面にわけて反復されるが、その時点ですでに二郎は菜穂子を見上げる存在である。土手で絵を描く菜穂子の帽子を二郎は斜面の下で受け止める。病床の菜穂子は別荘の階上にいて、二郎はそこへ向かって紙飛行機を投げるだけだし、二郎の求婚を受けるために菜穂子は階段を下りてくる。


 菜穂子は二郎の飛行機をけっきょく見ることはない。菜穂子が見たのは通り雨のあとに空にかかっていた虹だけだ。二郎が水に誘われて迷い込んだ森で邂逅した冗談みたいに激しく短い通り雨のあと二人で見上げたあの虹。やがて菜穂子は肺結核の療養のため高原に移るが、残り少ない余生を二郎と暮らすため療養所を抜けて山を降りてくる。肺結核を患う菜穂子は常時布団に縛られているためもはや二郎を見上げることしかできない。飛行機を見上げる二郎を見上げる菜穂子。彼女と手をつなぎながら仕事をする二郎の口元から立ちのぼる紫煙は二郎から切り離された上昇のムーヴの代理だろう。少なくとも二郎にとって飛行機の墜落は死の表象ではない。墜落すれば次の飛行機の設計図を引くまでだ。しかし上昇の次には何があるのか。次の墜落か、あるいは爆弾の投下による大量破壊か。そして菜穂子もまた死ぬために再び高いところへと帰っていく。ラスト、「生きて」と促す菜穂子の姿を黙って見下ろす二郎の行く先は知れない。

あ、正確には同居ではなかった。あといちばん肝心の「『幸腹グラフィティ』のメインキャラクターたちはなぜ揃いも揃って食べているときに過剰な蕩け顔になるのか?」ということについて考えるのを忘れていた。特に読み返さずに感想を書くからこうなる。片手落ちだなあ。というわけで考えてみます。


 まず作るひと町子リョウの思い描く幸福のイメージの源泉が食卓にあるのは間違いないのだけど、それは食べることそのものにはない。家族はよきものであり、家族は食卓を囲むものである、と同時に、食卓を囲むものが家族であり、家族であることはよきことである。この理念と規範の往還=接続を媒介するのが"料理のおいしさ"であり、それを食べるという具体的な行為だろう。でも仮に蕩け顔が幸福の表象だとしたらちょっと禍々しすぎるし、食卓で雁首揃えて「おいしいれふ……」と恍惚としている風景は不気味なものでしかない。だがリョウのイメージする食事光景できりんは朗らかに笑ってはいても恍惚とはしていないし、実際に食卓でも彼女らは食べるのに夢中でお互いの顔など見てはいない。蕩け顔が気になってしまうのは一話目のきりんとか、《よかった こういう食べ方するのうちの子だけじゃなかった》とコマの隅でつぶやく椎名の母親といった"(リョウの)家族"の外側にいる/いた者たちだけなのだ。そもそも蕩け顔とはいったい何なのかというとそれは食べることで内的に生じる"料理のおいしさ"に対する各々のアプローチの表象であり、それ自体は個人的で閉じた味覚というひとつの言語体系に基づくものであろう。誰が何をどうおいしいと感じるかは個々の履歴に負うところが大であるわけで(育ってきた環境が〜という歌もあるように)、それでも対話可能な部分を求めて作るひとはときに食べるひとの好き嫌いなども勘案しつつ手を尽くす。この心尽くしと賞味の応答はしかしあくまで噛み合ってはいなくて、作るひとは一方的に食べるひとをイメージするし、食べるひとはただひたすら食べるを全うする。彼女たち三人はそれぞれ過剰な恍惚の身振りによって作り手のイメージから自らを切り離し、(作るひともまたその一員である)食べるひと同士の内的過程の通約不可能性を露わにすることで、逆説的に彼女たちが"料理のおいしさ"に関する内的過程を共有していることが明らかになる。この噛み合わなさによって噛み合う様子、そこに言語ゲームが成立しているということがリョウにとっての幸福な家族の光景に直結している。家族の光景というのは、ただそう思えばそれだけで成立するものではないし、そう見えることだけが大事だというわけでもないのだ。


 とりあえずこんな感じのことを考えました。

川井マコト『幸腹グラフィティ』

けっきょく誘惑に負けてデザインを変更してしまったのですが、いくら見栄えを変えたところで文章がよくなるわけではないので、いずれにせよ居心地の悪さは残るのでした。時間が解決するのを待とう……。


 リハビリつづけます。川井マコト幸腹グラフィティ』について。これtwitterで書いたと思ったのだけどさっき見たら140文字ギリギリに纏められながらも何かが気にくわなかったのかまだ下書きに残されていたのでこっちで書き継いでみる。この作品の、少なくとも一巻目の範囲内で何が志向されているかということは一話目にある「わたしの料理」なる4コマにはっきりと書いてある。1コマ目で目を伏せて無表情にご飯を食べる主体が町子リョウという名の中学二年生であることがモノローグで明かされ、2コマ目で微笑む老女の遺影が映り、3コマ目でそれが少し前まで二人きりで住んでいた祖母であることが示唆され、4コマ目で《料理が下手になってしまいました》というモノローグと《ご飯が/まずいです……!》というセリフが、すなわちこれら階層の異なるテクストが涙の漫符や擬態語やトーンによるリョウの"泣き"の表象によって結びつけられ、それらが相互干渉的で切り離し不可能な事象であり、彼女にとっていかに悲嘆すべきことであるかが雄弁に、かつきわめて簡潔に語られる。リョウは食べるひととして現在形で嘆きながら、同時に作るひととしてその状況を俯瞰している。"作る-食べる"間にはとうぜん時差があり、食べるためにはまず作られる必要があるのだが、作ったものが必ず食べられるとは限らない。だから食べるひとにとっては料理を食べることそのものが存在理由であり、そのまま確かさや強度であったりするのだが、料理を作るひとは料理を食べられて初めて料理を作るひととしての役割をまっとうしたと言えるのであり、しかし作るは食べるに先行している以上、作るひとにとっては"食べるひと"のイメージを先取りすることが必要不可欠となる。それゆえ作るひとであり食べるひとであるリョウは、たとえば自分が誰かと食卓を囲んでいる光景をイメージしながら料理を作る。そこに時差はあってもイメージの"視差"はない。自分が食べることによって実現される幸福のイメージを自分が料理を作るとき先取りすることが結果として(作るひと-食べるひと間の)"視差"を埋めているのであって、それが独り身になることによってかなわなくなってしまったことで生じる、いわば"イメージの落差"とでも言うべき事象が4コマ目の《見た目はいいのに!!》という書き文字によって端的に表現されているという、まったくもって無駄のない一本なのであります。


 ところで一巻を締めくくる挿話では、食べるひと(一話で同居人になる森野きりん)が作るひとにまわり、食べるひと町子リョウが作るひと森野きりんのことを想像しながらお弁当をいただく、というくだりがあり、最後にだめ押し的に森野きりんが《でもお弁当って中身が分からないのもいいところだよね/箱開けるまでがワクワクっていうか》と言う。"視差"を食べるひと側から埋める、俯瞰や先取りなどの操作を経ない形での"イメージの交歓"を仄かに予感させるものであり、とても美しいと思いました。

ウルトラ・スーパー・デラックスマン

ああ、書き込もうと自分のブログを訪れるたびサイトのレイアウト何かちがう病が発症してしまう……とはいえここでうっかり手を出してしまうとまた時間が湯水のごとく消費されてしまうのでぐっと我慢の子でとりあえずちょっとだけメモを。


 藤子・F・不二雄ウルトラ・スーパー・デラックスマン』について。そのラスト、包丁でも拳銃でも戦車砲でも小型核爆弾でも死に至らしめることのできなかった(本人曰くウルトラ・スーパー・デラックス細胞で出来た)句楽兼人の死因は胃ガンであり、現代最高の医療でも《ウルトラ・スーパー・デラックスガン細胞》の増殖を止めることは不可能であった、と追想的な誰かのモノローグによって語られる。なるほど、やっぱりガンは怖いや! ……しかしウルトラ・スーパー・デラックスガン細胞とはいったいぜんたい何じゃらほい? なのだが、おそらくそれは単にウルトラ・スーパー・デラックスマンの命を奪ったガン細胞、というほどの意味しかなく、その実ただのガン細胞であり、とはいえ正義に執心するがあまり怪物化した不死身の男にとどめを刺したのだから正義のガン細胞なのである。暴走する正義の味方にウルトラ・スーパー・デラックスマンという多重形容の過剰でナンセンスな名前が付与されたのが皮肉ならば、尊い命を奪い年々人口全体におけるその死亡率が(あくまでこの作品の発表された1976年当時の話だが)増加の一途を辿っている現代医学最大の敵だったはずのガン細胞に正義の味方と同じ形容が冠されるのは二重の皮肉であり、さすればこの作品のテーマは、たとえば全集の巻末解説で山田正紀が示唆するような「正義」(の欺瞞性、いかがわしさ)ではあるまい。むしろそれは「(正義の)イメージ」だろう。現代においてイメージはメディアによって増幅される。


 思えば句楽兼人は《世の中にあふれるどす黒い不正》をテレビや新聞で《見るにつけ聞くにつけ》怒りを募らせてはいるものの、現実では痴漢ひとり撃退することも出来ずにせっせと新聞に投書をつづけるだけの毎日を送っていた。それだけの男になぜとつぜん数々の超能力が付与されたのかは特に説明されないが、ともかく彼はウルトラ・スーパー・デラックスマンになった後も新聞やテレビを気にしつづけ、最近は事件とか起きなくていいよね、きっと悪人どもが君に恐れをなしているんだよ、と言う友人に対して、正義の味方に出番を与えないよう報道管制が敷かれているからそう見えるだけだ、と自説を披瀝してまた憤る始末なのだ。


 メディアとの閉じた受給関係の中で超能力を与えられ正義を実行してきた男が、自家中毒的な正義のイメージに振りまわされる内に怪物化し、やがてメディアから一方的に正義の循環回路を絶ちきられ、終いには会社のOLを萎縮させたり、寿司をただでせしめたり、売れっ子アイドルとの一夜を楽しむだけの存在へとなし崩し的に矮小化していく。そしてその命脈を絶つのがメディアによって致死性の高い難病として市民権を得つつあった、いわばドラゴンボール元気玉みたいにみんなの力を結集した「ガン細胞」(というイメージ)であった、というのがこの作品の要旨と考えて間違いないだろう。間違いないんですってば。