宮崎駿『風立ちぬ』を観て思いだしたこと

いつ頃から流布しているのか知れない夏目漱石の「月が(星が)きれいですね」エピソードというものがあってオンライン・ライフハッカーズが嬉しげに拡散させている光景を定期的に見るのだけど、こういう本人が書いたわけでもないエピソードに出典を求めたところでしょうがないので(たとえば元生徒の回顧録のような形でどこかに綴られていることが判明したとしてもその出典に信憑性があるかどうかはまた別の話だし、それは紙の本だろうがWeb上の記述だろうが原則的に変わりはないはず)真に受けるのは構わないにしても、このフレーズからは原文の置かれた前後の文脈のみならず、翻訳される言語の背景となる文化や情趣、それがどのような風土のもとに生きているかということを考慮に入れることなく、ただ西洋の概念を逐語的に自国語に置き換えて事足れりとする、ともすれば西洋かぶれとも見なされかねないその愚直さを笑いながらも厳しくたしなめる英語教師の姿しか見えてこないし、生徒に発想の転換を促すためユーモア混じりに用いた"極端な例"以外の何ものでもないこの一文を馬鹿正直に反復する生徒がいればその教師も苦笑をもって遇さざるをえないではないか(がらんどうヘッズが「ねえねえ、ちょっと"I love you"を和訳してみて?」と得意満面で吹聴してまわる様子はちょっとだけ一昔前に安田成美が出演していた「薔薇って漢字で書ける?」とかなんとか無遠慮に語りかけてくるお醤油のCMを想起させたりして)。


 そもそも「月がきれいですね」という文が愛の言葉として成立するためにはまず「月がきれいですね」という文が愛の言葉として成立する関係性がなくてはならないが、しかし「月がきれいですね」という文が愛の言葉として成立する関係性の枠内で「月がきれいですね」と口にしたところでそれは愛の言葉ではなく愛を確認する言葉でしかない。そこにはいささかの事件性もないし、少なくとも"Love"という概念が日本語に持ち込まれるというのはそれなりの事件だったはずで、そうでなければ既存の日本語に置き換えれば済む話だし、わざわざ生徒の直訳を退けたあとに呈示する例として相応しくないだろう。この文が会話する二人にとっての事件であるためには両者間に安定的な関係性が成立していてはならない。関係性がなくてはならないが、関係性があってもならない。この矛盾した要件を同時に成立せしめるのが月の存在だろう。「月がきれいですね」という言葉からは片方が月を見上げ、もう片方にそれを見上げることを促すという一連の動きが見えてくるが、もちろん月は初めから空にぽっかりと浮かんでいるしそのことを両者とも見上げる前から認識しているのだから、あくまで彼らのムーヴの起因となったのは月である。月があるから彼らは空を見上げたのであり、それが二人の愛の証左となった。言い換えれば月は彼らが見上げる前から二人を見ていたが、二人は実際に見上げる前から月が二人を見ていることを知っていた。この"知っていた"と見上げるというムーヴを架橋するのが「月がきれいですね」という言葉であり、それゆえに二人で見上げるという些細な動作が事件たりうる。そしてその事件は月があらかじめ見ていたという強固な事実に起因するものだから、遡及的に関係性が生成されたということにもならない。


 ところで宮崎駿風立ちぬ』にあって堀越二郎にほとんど欠けているのは上昇と下降のムーヴだろう。堀越二郎は設計者であるため飛行機には乗らない。ただ夢、あるいは幻想の中でのみ飛行機に乗って上昇し、ときに墜落することで下降する。他方、現実ではただ地上から飛行機の上昇と下降(墜落)を見上げるのみである。ドイツのユンカース社を視察した際に試乗してはいるが、離着陸が描かれることはなく、また堀越自身の興味も飛行そのものではなく飛行する原理にしかないのでもっぱら飛行機の中を歩きまわるのみだった。記憶にある限り、二郎が具体的に下降したのは序盤で震災に見舞われるシークエンスだけだったと思う。菜穂子と出会い、女中を背負って駆け下りたあの斜面。そのあと二郎が自身のシャツに染みこませた水を与えるくだりも含め、このシークエンスは中盤で二場面にわけて反復されるが、その時点ですでに二郎は菜穂子を見上げる存在である。土手で絵を描く菜穂子の帽子を二郎は斜面の下で受け止める。病床の菜穂子は別荘の階上にいて、二郎はそこへ向かって紙飛行機を投げるだけだし、二郎の求婚を受けるために菜穂子は階段を下りてくる。


 菜穂子は二郎の飛行機をけっきょく見ることはない。菜穂子が見たのは通り雨のあとに空にかかっていた虹だけだ。二郎が水に誘われて迷い込んだ森で邂逅した冗談みたいに激しく短い通り雨のあと二人で見上げたあの虹。やがて菜穂子は肺結核の療養のため高原に移るが、残り少ない余生を二郎と暮らすため療養所を抜けて山を降りてくる。肺結核を患う菜穂子は常時布団に縛られているためもはや二郎を見上げることしかできない。飛行機を見上げる二郎を見上げる菜穂子。彼女と手をつなぎながら仕事をする二郎の口元から立ちのぼる紫煙は二郎から切り離された上昇のムーヴの代理だろう。少なくとも二郎にとって飛行機の墜落は死の表象ではない。墜落すれば次の飛行機の設計図を引くまでだ。しかし上昇の次には何があるのか。次の墜落か、あるいは爆弾の投下による大量破壊か。そして菜穂子もまた死ぬために再び高いところへと帰っていく。ラスト、「生きて」と促す菜穂子の姿を黙って見下ろす二郎の行く先は知れない。