袖元の枝分かれハンバート&ハンバート


  普段考えていることを何も書きたくないんだ、と言うと、それではまるで普段はたいそうなことを考えているかのようではないですか、と言われた。そうではなくてまったく取るに足らないことばかりを脈絡なく考えている、と言うと、つまり普段書いているのと同じようなことでしょう、と言われたので、そうではなくて普段考えていることと普段書いていることはまったく別のことでそれらはいずれも徹頭徹尾取るに足らないことだしその取るに足らなさもよく似ていてその取るに足らなさにおいては互いに似ているといいうるのかも知れないけど決して同じでもないし同じようなことでもないんだそれは似ているからこそよくわかる、と言った。知りませんよ、と言われ、つまりただのバカでしょう、と畳み込まれた。そんなこととうに知っていましたよ、とでも言いたげな顔だった。


  我が家に巣くう山の神より「iPod miniに曲を詰め朕に捧げよ」と命じられたので目下その作業にいそしんでいる。「音質は問わぬ」というありがたいようなそうでないようなお言葉を賜ったものの馬鹿正直にiTunesで曲を吸い出していくのはさすがに耐えられないのでCDexlameで容量を食いすぎない程度に音源を攫いすくい出していった。2〜300曲たまったところでちょっと試みに外出にでも携えてみようとデータをインポートしようとしたところでiPod miniが押し黙ったまま認識不能になってしまったのにはさすがに背筋を凍らせたし立ち昇る死の匂いに昏倒しかけたのだけど何とか事なきを得ていそいそと外出しほんのちょっとだけ世界が変わった。電車の座席で桃井はるこ→WHITE NOISE→Björk Gudmundsdóttir→高橋悠治演奏のXENAKIS→The Homosexuals→SOUND HORIZONとランダムに曲が切り替わっていくなか読む小島信夫もおつで、『各務原・名古屋・国立』はちょっと大西巨人の『三位一体の神話』のはじめのほうを彷彿とさせもした(が、ふと思い立って帰宅して読み返してみたらぜんぜんちがっていてがっかりした。読書には環境に左右される相があって、だからこそ水車番のヘンリーも「『ユリシーズ』なんてちょっと高級な便所紙だ」と言ったわけだが、「その相において環境に左右されること」が力学としてあるいはその衝突として作用する相はまた別にあるのでそれらを混同すると読書は印象に終始するしその印象が規範と結びつけば概念化した暴力の様式が生まれる。実用書や参考書を読むようなやり方にちょっと慣れすぎなのだ、学校では基本的にそのことしか教えないし(10年は手に取っていないが)『ダ・ヴィンチ』のような読書媒体だってそれを追認しながら柔らかに甘ったるく推し進めようとする。リディア・デイヴィスの『ほとんど記憶のない女』を読んでみたらどうか。この本に収められた51編からどのような物語でも語り出せそうな気がするし気がすればするほどその必要のないことが身に染みる。何のために書かれたのかさっぱりわからないが強烈に何かのために存在し、しかもその何かは隠されることなくほとんどテクストの上に剥き出しになっているのだがテクスト自体はお構いなしにきわめて低い温度を保ったまま論理的に散乱しながら支離滅裂に整列し次々と自身を置き去りにしていく。どちらも帯に名前があったと思うのだがグレイス・ペイリーとは似ていながらまったく異なるほとんど真逆と言っていい手触りを残すしだからといってカフカ的とは言うには抵抗があるしそもそもカフカ的という便利なレッテル自体好きではない。『エリザベス・コステロ』の最終章を思い出した。ペイリーとカフカを安易に掛け合わせてしまうような軽薄な誤読、その理知と冷静さの感情的な発露の果てに道筋はある)。しかしまだまだ興が乗っていないのかうまく選曲ができず結局はよく聴くものを優先して入れてしまっている。反省するばかりだし、結局は思った以上に狭い範囲でしか音楽に接することができていないことを自覚させられ暗澹としてしまう(端的に「量として」もそうだ)。桃井はるこ「ゴー★ホーム!」がベスト盤に入っていないことにはやはりあらためて疑問を覚えざるを得ない。彼女のもっともよい歌唱のひとつではないか。