《私は生きることなく、なんと多くのものごとを生きたことだろう。考えることなく、なんと多くのものごとを考えたことだろう。私は、不動の暴力の世界や、動きのまるでない冒険の世界が、私に重くのしかかるのを感じる。いまだかつて所有したことも、これからも所有することもないものでいっぱいになり、いまだ存在していない神々にうんざりしている。私の体の上には、自分が避けたあらゆる闘いの傷痕がある。私の体の筋肉は、私が行なわなかったどころか想像すらしなかった努力でへとへとになっている。
 [……]頭上の空は、未完成の死んだ夏の空だ。私はこの空を、まるでそこに存在しないかのように眺めている。私は自分が考えているものを眠り、歩きながら寝て、なにも感じずに苦しむ。私の強い郷愁は、無の郷愁だ。この郷愁そのものが夢なのだ。見るというよりは、誰でもない仕方で私が凝視しているこの深い空のように》


 テレビ版も映画版もいまだ観る機会には恵まれていないがゲーム『AIR』について。この作品を俯瞰して何ごとかを言うということは多くの場合は知っている者同士の肯きあいか作品内で用意された概念や意識を捏ねくりまわすだけの野暮にしかならないのではないだろうかと思った。話のスケールだけに着目すると『幻の湖』もかくやというほどの突拍子のない感じだし(そういえばつい先日かつて『幻の湖』をいっしょに観て苦い涙を分けあった友人から電話があり開口一番「いやあきみが薦めるもんだから青山真治の『レイクサイドマーダーケース』を観にいったんだけどどうしようもなかったじゃないかどうしてくれるこの金と時間本当にいい映画だからきみも絶対に観ろ」とくぐもっているくせ妙に明るく弾んだ声で身におぼえのない罪状を次々と列挙され、たしかに『Helpless』と『濱マイク』の話はしましたが……と弱弱しく事実を述べても聞く耳を持たず「明日観にいけ観にいかないならDVDの新作で借りろ借りて最低一週間は延滞しろ観なくてもいいから」とまくしたてる始末、気がつけばこっちも錯乱状態で、青山真治は『エリ・エリ・レマ サバクタニ』のことばかり考えてたんですよ!とかたまたま風邪をこじらせていたんですよ!とか原作が悪かったんですよ!とかもともとそういう人なんですよデ・パルマみたいな!とか叫んでいたのだけどつい最近なぜか『ミッション・トゥ・マーズ』と『御法度』に関しても似たような応酬があったことを思い出しかつ今回はほとんど濡れ衣でなし崩し的に観てもいない映画の側に押しやられていることに気づいたときにはすでに電話がかかってきてから一時間半が経過していて相手の声の調子も穏やかになり話題も全然関係のないところへ落ち着きそうだったのだけどそれは迂回にすぎず何の責任もなく発した瑣末なひとことがきっかけに瞬く間に相手の語気が粘度を増して裏返り「本当はおもしろいんだきっときみなら気に入るはずだ青山なんか二度と観るか」とすがすがしさを隠そうともせずまくしたてられてちょっと泣けた)、「泣き」とか「死」とか「家族」とか臆面もなく呈示されると自然と腰が引けてしまう。岸和田博士の異常な数式(だっけ?)みたいな類いのひたすらうんざりするような物語だとしか思えないじゃないか。しかし実際は評判や事前の印象とはちがっていて、物語にうんざりするような箇所を多数含みながらも『AIR』がとても泣かせるためには親をも殺すかのごときいわゆる「泣き」ゲーの代表作とはとても思えなかった、むろんこれは最後まで読んでみた結果、ということだけど。


 ところでずいぶん昔のたったいま「進行中の読書」(reading in progress)という言葉を思いついたまま忘れていた。読書は文字どおり本を開くことにはじまり閉じることに終わるのだけど文学作品、こと小説に関しては本を開くということがそのまま読書にはならないし本を閉じることがその終わりとはならない。流し読みだとか読めていないだとかそういうことではなく、本を開くという具体的動作につづいて実際に読みはじめることで小説を(自分に向かって)開くという手続きを踏まなくては小説というものは成立しないし、むろん小説一般に共通の手続きの手引きなんていうものはなくて小説は気がついたら開かれているもので開かないときにはとりあえず無理やり読みすすめてみるかいっそいったん本を閉じて気分がのるまで待ってみた方がいいかも知れないがそれはともかく一度開いた小説は物理的に本を閉じてしまっても依然開いたまま緩やかにテクストとその外部との関係を更新していて、ついついその状態が好きで(かどうかはわからないが結果としていつも)「読書」というテクストと一対一で向きあうはずの営為が複数の「進行中の読書」として日常生活に拡散してしまうのだけど必ずしもその小説が終わってしまうのが惜しい、少しでも長くその世界にいたいという願望のあらわれというわけではなく、かといって線的な物語の進行に対して興味が希薄なだけだと言って済ませてしまうこともできないのだけど短編小説(中でもポオ的な)はともかく長篇小説は自らの癖や習慣を抜きにしてもそういう読み方のほうがしっくりくる場合が多い。逆にいえばそういう小説を読書の対象として選びがちだということ。